DEPARTURES


 さすがに船は急に拵えるのは無理なので、長曾我部のものを借りての船出となった。帆だけは伊達に掛け替えてある。毛利軍との戦いで、伊達側にほとんど人死にがなかったのは幸いだった。
 元親は水先案内も、もちろんつけてくれた。やはり谷である。
 上洛の期日まで余裕を見ていたはずが、あれやこれやですっかり遅くなってしまった。急がなければ、間に合わないかも知れない。安全な航路を選んでくれるなれた水先案内人が欠かせない。
『文を書く』
 昨夜、元親が床の中でそう言った。
『もっと速い船を作らせる。あんたが発ったら、すぐに取りかかる』
 甘い声音は真剣で、政宗は黙ってその言葉を聞いた。本当に離れたくなかった。だが、互いの立場があれば、巫山戯たことは言えない。
 それでもつい呟いたのは、元親の腕に抱かれていたからだろうと政宗は思う。ぴったりと添っているときばかりは、他のことになかなか気が回らない。目の前の元親と、自分の気持ちで一杯になってしまうのだ。
 それが惚れるという気持ちなのかと、少しはわかるようになった。
『…今度はいつ、会えるんだろうな…』
『我慢できなくなったら、すぐとんでく』
 すかさず言って、腕の力が強くなった。
『 ……俺が、我慢できなくなったらどうすんだよ』
『おう、どうすんだ?』
 元親のように、とんでいくとは言えなかった。
『…文に書く』
 政宗の取りかかった仕事は途方もなく大きい。これまで幾人もの名だたる武将が、道半ばに死んでいった。無論、政宗は自分の力量を信じている。諸侯のように、挫折などしない自信がある。
 だが、生半可な気持ちで成し遂げられるものでもないのだ。
『文、読んだらその日のうちにここを出る。それでいいか?』
 優しい鬼が耳元でそう言った。
 元親は嘘は言わない。間違いなく、そうするだろう。
 アニキというのはそういう者だ。
 船中、自室となった狭い部屋で、政宗は大の字に転がった。手の中には珊瑚玉がある。我ながら女々しいと思ったが、鬼の宝だ。
 しばらくは、これしかない。
 ふっとため息を漏らしたとき、不意に外が騒がしくなった。
「どうしたよ」
 またふっかけられたのかと、戸の外にいた小姓に問うた。
「雪が」
 言われて甲板に出れば、風花が舞っていた。重い雲からひらひらと落ちて、儚い白が海風にまかれて舞っている。
 久しぶりに見る雪だった。
 奥州者には物足りないほどのかわいらしさだが、遠い地で故郷を思い起こすには十分過ぎる。わあわあとはしゃぐ家来達の声に、政宗は笑みを浮かべた。
 きっと政宗の鬼は、寒さに震えているだろう。



 雪は、比良にも降っていた。
 若狭から吹き込む冷たい風がぶつかる山地は、知られた豪雪地帯である。都に近いからと安心していれば、雪に降られて凍え死ぬことだってある。
 賤ヶ岳からこちら、佐助は走り通しだ。
 夜となく、昼となく、撒いても撒いても追ってくる。風間小太郎は伝説の忍の名に相応しい男だったようだ。
 佐助は、自分の腕を信じていた。戦の世を忍として生きるなら、自分を信じるしか道はない。疑えばそれまで。その忍は長くはない。
「…やっばいなー」
 佐助は小雪に白くなりはじめた木々を見上げ、呟いた。木立の切れ間、琵琶湖が見える。空と同じく鈍色の水は、佐助の気持ちをさらに暗くさせた。
 そっと幹にもたれて、懐にしのばせてあった堅焼を出した。麦と米を捏ねて餅にし、何度も何度も焼きしめて作った忍の飯である。煎餅のような形をしてはいるが、そのままかじれば歯が折れるほど固い。割って砕いた欠片を口に含み、溶かして食うものである。
 さすがに腹がくちるのは無理だが、死なない程度には力のもとにはなるものだ。
 干飯の上を行く非常用の食い物である。
 さすがの佐助も疲れてきた。ろくに眠れないのが何より辛い。人間、食より眠りを奪われるほうが消耗する。
 小太郎も同じ条件のはずだが、追われるほうが辛いものだ。
「あー…ったく。困ったねぇ」
 佐助は飄と呟いた。
 武田信玄の命を受けてもう一月近く経つ。甲斐の虎と言われた信玄は、病の床に伏している。今の佐助には信玄の病状を知る術もないが、危ないところだと思っていた。
 何しろ、一度は心の臓が止まったのだ。佐助が見たところ、信玄は気力だけで生きているようだった。
 その信玄から与えられた命令は三つである。
 ひとつ、伊達政宗を探ること。
 ひとつ、前田利家を探ること。
 ひとつ、織田信長を探ること。
 命じられたことが意味するところなど、佐助の知ったことではない。名のある男たちが考えることなど、忍は知らなくてよい。だが、探って来なくてはならない。
「…さて、お仕事お仕事…っと」
 ふらつく頭を軽く振り、佐助は立ち上がった。小太郎の気配はない。潜んでいるのか、疲れて休んでいるのかはわからないが、今は近くにいない。
 小太郎も仕事だ。互いに憎くもない者同士、主の都合で殺し合うのが仕事とは、因果なものだが仕方ない。
「織田信長は…本能寺にありってね」
 佐助は体力を削らぬよう、できるだけ静かに歩き出した。
 目指すは、都。本能寺。



 摂津国。
 半兵衛は桜井宿まで戻ってきた。折からちらつく雪が、骨身まで冷やすようだった。
 本願寺顕如を倒した豊臣秀吉は、大坂から奈良、紀州までを手に入れている。だが、ここから先は織田信長の領地といっても過言ではない。
 辛うじて都は帝と町衆のもので、中立ではあったが危ういものだ。織田軍がその気になれば、一日持たずに落ちるだろう。
 大山崎、天王山の砦を守るのは織田配下の中でも指折りの将、明智光秀だ。
 半兵衛はその光秀に会おうとここまで来た。
 天王山は山というには低い、丘と呼ぶには険しい山である。そこに半兵衛は単身で乗り込んだ。
「…おや…これは…竹中半兵衛…」
 名乗ってみれば易々と、砦の中、光秀の前に通された。
 光秀は相変わらず、病的なほどに白い顔と細い体をしていた。歪めているように見える表情は、笑顔である。慣れなければ、わからないかもしれないが。
「久しぶりだね」
 半兵衛は悠然と言った。
「最後にお会いしたのは…ああ、美濃で、でしたね」
「そうだね。君は結局、織田についた」
「そしてあなたは豊臣に」
 光秀も半兵衛も、同じく土岐氏という豪族に仕える家に生まれた。しかし土岐氏は斉藤道三に滅ぼされ、不遇の時代を共に過ごした。信長の正室・濃姫はその道三の娘である。
「今日は古い知り合いとしてここに来たんだよ」
 半兵衛は笑みを深くした。光秀が、おやと首を傾げる。
「昔語りが好きになったとは…知りませんでしたよ」
 喉を震わせて笑うようになったのは、信長に仕えはじめてからであると半兵衛は知っている。目の前の男は、半ば正気を失っているのだ。
「もちろん、そういう訳じゃない。今の話だよ」
「いま…?」
 光秀が笑顔のままで細い目を光らせた。
 冷たい、ぞっとする視線は蛇に似ている。志どころか、心もないように見える。ひょっとしたら、腹を切り裂いてみても、赤い血が流れていないのかもしれない。
「君が欲しいものを手に入れる方法を教えてあげようと思ってね」
「わたしが…ほしいもの…」
 笑みが消えた。
「あなたはそれを知っていると?」
「僕は軍師でね」
「豊臣秀吉の、ね」
 光秀が傍らに置いてあった鎌に手を伸ばした。そっと刃を撫でている。言われたことの真偽を確かめているのだろう。
 半兵衛は黙ってそれを見つめた。
「……どうすれば、教えてくれるんです?」
「君が、成功してくれさえすればそれで」
「あなたの得になる、と?」
 口元の笑みで、そうだと伝える。光秀は馬鹿という訳ではない。それですべてを悟ったようだった。
「いいでしょう……策を…聞かせてください、半兵衛」