◆RUN(後編)
文字通り、疾風の如く。
慶次は武蔵から上野へと突っ走った。政宗のくれた書状の効果は覿面で、越後でも何度か馬を換えることができた。
権威も権力もくそ食らえというのが慶次の生き方だったが、今度ばかりは真逆に位置する独眼竜の威光に助けられた。
不眠不休の急ぎ旅、さすがの傾奇者も体力の限界である。小さな猿にはもっときつかったらしく、夢吉は懐ですっかり丸くなっていた。
「…間に合ってくれようっ!」
祈るような気持ちで雪の越後路を越えた三日目の朝、慶次はついに見た。
きらきらと朝日に輝く海に添う、営々と続く大軍勢。旗印は葵。規律正しく進む蟻のように、ただまっすぐに加賀へと向かって伸びている。まだ合戦は始まっていないのが救いだった。
「家康…っ」
ここまで来れば知れた道である。慶次はひた走りに前田の家を目指した。
前田家が加賀に拠を構えたのは、信長の命だった。上越から信濃を睨む要所を、信頼する家臣に任せたかったからだろう。このことだけでも、近江から北陸一帯を預かった前田利家への信頼の厚さが伺えるというものだ。
だから利家は譲らないのだ。譲れないのだ。
「何でだよ、利!」
慶次は声の限りに叫んだ。
家中はすでに戦支度を終えていた。軍議の間に集まった主な家臣達は、鎧の下に白装束を着込んでいる。利家でさえ、白いはちまきを巻いていた。
「俺は信長様にこの地を預かったんだ」
いつもなら、怒鳴り返すはずの利家が静かに言った。
「慶次、お前は逃げろ。何もここで死ぬことはない」
いつにない精悍な笑みで、利家が言った。
「死ぬのが判ってて家康と戦うっていうのかよっ!」
「槍の腕前なら勝てるけど、戦は一騎打ちじゃあないからな」
上座にどっかりと座った利家は、ぽりぽりと頬を掻いた。まるでいつもと変わらない暢気な仕草なのに、何かが違っていた。それが死ぬことを覚悟した人間の気配だということくらい、傾奇者にもわかる。
「戻ってくるとき、徳川の軍勢を見た。すごい数だよ、利!」
「だろうなぁー。竹千代の強さは、数だ。よく知ってる」
うんうんと頷いて利家が言った。飯時、おかずの種類を褒めるような声だ。
「だったら、やめろよ。戦なんかよう! 友達と戦ってどうすんだよ!」
ついに堪えきれず立ち上がり、慶次は利家の両肩をがっと掴んだ。
「降参しろよ、利っ! いいじゃねえか、徳川の家臣になったってよう!」
声に涙が混じった。
慶次は利家が好きだった。おおらかで明るく、笑っているのが何より似合う男だ。時々つまらないケンカはしたが、叔父というより兄のように慕ってきた。その利家が、むざむざと死ぬのは見たくないのだ。
「…けどなぁ…信長様のことを思うとなぁ……そうはいかないんだ」
「魔王さんを追っかけて死ぬのかよ…」
慶次はそのまま、へたり込んだ。利家は何とも優しい顔で見つめてくれていた。いつも頼りないところばかりを見せつけていたくせに、今日ばかりは武将の顔だ。慶次の大嫌いな軍人(いくさびと)の表情である。
戦を口実に、どいつもこいつも命を粗末にしすぎるではないか。
殺し合うのがそんなに楽しいとでもいうのだろうか。独眼竜が言った通り、みんなイかれてるにちがいない。
「だって、明智殿が謀反を起こしたんだ。この上、俺まで信長様を裏切ったら、あんまりに可哀想じゃないか」
利家はうん、と頷いた。
「けど、慶次が来てくれてよかったよ。お前に頼みたいことがあるんだ」
「…頼み…?」
「まつのことだ。連れて逃げてくれないか?」
利家の目は本気だった。その顔に、男の野望のために死んだ女の笑みが重なる。慶次は目を瞠った。たちまち、熱いものがこみ上げてくる。
「…いやでございます」
凛とした声が、軍議の間に響いた。やはり白装束に身を包んだまつが、いつの間にか立っていた。手には自慢の長刀がある。
「まつは、犬千代様の妻にございますれば」
言い放ち、慶次と利家の目の前に、まつは三つ指をついた。
「この上は、犬千代様と共に討ち死にいたす覚悟」
「…まつ姉ちゃんまで何言ってんだ!」
慶次は今度こそ激高した。
「みんな、どうかしてるっ! 何でそんなに死にたいんだよ! それより楽しく生きようよ! 死んで咲く花なんかねえよ、ねえんだようっ!」
ひっくり返って手足をばたつかせ、まるで子供の駄々のような叫び方だった。涙だか鼻水だかわからないもので顔もぐしゃぐしゃだ。京の都の優男の面目もなにもあったものではない。
だが、慶次は構わなかった。
人が死ぬのは大嫌いだ。大切な人が死ぬのはもっと嫌だ。とにかくそれだけなのだ。慶次は、利家にもまつにも、たぶん家康にも死んで欲しくない。
「見苦しいっ!」
一喝したのは、まつだった。
途端にごう、と風が唸り、慶次の大きな体が壁に思い切り叩きつけられた。
不意打ちに、さすがに受け身も取れず、強か背中を打ち付けた。あまりの痛みに違う種類の涙が溢れ、慶次は呻きながらまつを恨めしそうに見た。
「ま、まつ!」
慌てた利家の前、まつが少し間を詰めた。
「…犬千代様。ただ、ひとつだけお伝えしたいことがございます…」
神妙に、まつが言った。長い睫を伏せたありさまは儚げで、長刀で大の男を幾人も薙ぎ倒すような女傑には見えない。
「犬千代様の若子を…一目見とうございました」
「…え?」
利家の顔色が変わった。
「わ、若子? 赤子か…?」
ずざざざざ、と膝で滑ってまつの側。利家が勢いよく若い妻の手を取った。たおやかな白が、利家の灼けた肌に包まれる。
「…犬千代様の」
「赤子…赤子が…ここに?」
膝にそのまま抱きかかえ、白装束のまつの腹に利家が怖々と手を触れた。
「…赤子…」
「まつは、犬千代様に似た、元気の良い男の子が欲しゅうございました」
「………まつ…」
利家が泣き出しそうに顔を歪めた。
信長への忠義は侍としての矜持だ。だが、武将としてみれば、家そのものの存続を計ることが何より大事。嫡子をあげ、名を残してこその武勲である。
そして何より、利家はまつを心から好いている。惚れた女が自分の子を宿したと知って、平気で死なせることのできる男などいない。
本気で困ったのだろう。
「…まつ…ぅ…」
利家はついに、まつの胸に顔を埋めた。
「犬千代様」
「…俺は…俺は……まつも、子も、死なせたくない…っ」
微かな声は、確かに泣いていた。
「…犬千代様のお心のままに」
言ったまつが、一瞬だけ慶次を見た。くるりと大きな瞳には、柔らかさと同じくらいの意志の強さがあった。まつの真意を悟った。
慶次がどれだけ泣いて叫ぼうとも、利家は折れなかった。何日粘っても、きっと平行線だっただろう。
だが、まつはたった一言だ。その腹に子がいようがいまいが、大した問題ではない。
「…まつ姉ちゃん……すげえ…」
だから女には、敵わない。
慶次は無様に転がったまま、その場で呆気にとられていた。
ほどなく前田軍から降伏を告げる使者が立った。
北陸は、徳川家康の支配下となった。
佐助は上田城の幸村の元に戻っていた。
日数よりもずっと長く辛かった探索行の顛末を、信濃の館に落ち着いている信玄に持って行ったが、当の虎には会うことができなかった。
信玄はじっと軍議の間に籠もりきりで、軍師の山本勘助と嫡子・勝頼しか側に近づけないのだという。信玄直命の報告をさせもせぬとはどういうことか。
佐助は己の察したところを、信じたくない気持ちで一杯だった。
「佐助」
幸村は上田城をよく守っていた。いわゆる真田忍軍と自身の手勢の他、まかない切れない備えは、上田城下から民兵を募って守らせている。長曾我部軍の一両具足を真似たといえばそれまでだが、若い幸村にしてはなかなかの手腕だと言えるだろう。
「旦那、どうしたの?」
庭先に呼ばれ、佐助は気楽な調子で主に応えた。
「信濃を見てきてくれぬか」
二日とあけず、幸村は同じ言葉を口にする。
佐助が出かけるよりも前に会ったきり、幸村はあれほど敬愛する信玄の声さえ聞いていない。言いつけを守ることを至上としてはいるが、何か縁が欲しいのだろう。
その気持ちは痛いほど分かるだけに、辛い。
忍ばせている配下からは、変わった知らせはなにもない。その一事だけでも、佐助の危惧が正しいと裏付けているような気がした。
「それはいいけど…旦那…」
「…わかっておる。お館様の命は、この地を守れということだ。俺は動かぬ」
大人びた口調で言うが、幸村にはまだ少年の面影が濃く残っている。親に捨てられた子のように、頼りなく見えてしまうのは仕方がないだろう。
父を戦で失った幸村は、信玄を実の父以上に慕っている。二言目には「お館様」だ。信玄に付き従って戦に出るのが、何よりも幸せな男なのである。噂さえ聞けない日々は、不安で仕方がないだろう。
「せめて、正月の挨拶には行きたいのだ。その許しを貰ってきてはくれぬか」
「…わかったよ、旦那」
佐助は頷いて笑った。
師走の風は、忍の心も冷やすように冷たかった。